19章 保釈から裁判待ち 

人生

保釈金300万

どういう計算からはじき出されるのかよく覚えてないが、弁護士先生曰く300万あれば大丈夫だろうとの事、しかし検察は私が証拠隠滅等を図られる可能性を鑑みて反対をしていた様子だった。

当初の予定日では出れず、途方に暮れて数日過ぎた頃、いきなり看守から「保釈だから昼過ぎには出るから」と告げられた。

当然隣近所の部屋にも聞こえる声だった。同居人から「良かったですね、やっぱり私選弁護士だな」と声をかけられた。

隣の部屋から鉄柵越しに鼻紙が渡され、「外に出たらこの弁護士に連絡を取って欲しい」と連絡先を渡された。1か月近く入っていたので何か仲間意識や連帯感は私の中には芽生えていた。シャバに出てこの弁護士氏に電話をして要件は伝えておいた。

迎えは両親が来てくれた

時間になると警察と親とも弁護士通じて連絡がついていた様子で、時間に警察署に迎えに来るとの事だった。たまたま実家の近くの警察署であったことが幸運だった。

普通に警察署の玄関で担当官から「それじゃ」と言われてから嘘のように放置状態となった。しばらくすると年老いた父親が迎えに来てくれた。

車に乗りまず両親に「すみませんでした」と誤った。「人生の中ではいろいろあるんだ」と言ってもらった。コンビニに寄ってコーヒーでも飲めと言われ久しぶりにコーヒーと一服をした。28日ぶりだったので電子タバコを吸うとヤニクラの感覚が気持ちよかった。今考えればそのまま吸わずやめてしまえば良かったかもしれない。

母親の作った手料理をたらふく食べて、解放感を味わった。弟が帰ってきて「ここは見方しかいないから心配すんな」と言ってくれた。

勤務先に電話 解雇を告げられる

携帯電話は押収されたままだったので家電から勤務先の社長に連絡を入れた。「今回の報道を受け、解雇とした。しかし自主的な自己都合での退職でもいい」と言われた。よく考えると解雇だったら後々の失業保険がすぐもらえたが、一身上の都合での退社としたところで保険金が出るまでに待機期間が3か月もかかってしまった。しかし今後の履歴書上の事など考え自主退社というカタチを選んでしまった。

勤務先ではその会社での出来事ではなく、あくまで前職での事件だったので温情はかけてくれたのかも知れないが、県内での出来事ゆえ地元メディアに報道されてしまった事が大きかったようだ。

この報道されてしまったことは本当に社会的に抹殺されるが如くの始末になる。親戚や隣近所まで知られるところとなっていたのだ。

裁判までの待機期間

基本的には裁判が行われるまでの間、監督者の元で大人しくしている事が保釈の条件らしい。そのため自宅に戻っても親が泊りで来ている状態が望ましいのでそうしてもらった。12月初旬だったが裁判までは年を越すだろうから何も動けない状況になった。

見立てとしては裁判でも有罪になっても執行猶予は付くから、社会生活は送れる、だが仕事は無くなったから転職活動をしなければならない。それも裁判が終わるまで何にもできないという状況だった。

軽く浦島太郎 状態

実は刑事沙汰になっている情報を得てから、妻には今後の財産とかを守るために離婚をしていた。しかしそれは両親にも言っていなかった。実家まで妻が迎えに来てくれ、というより私の両親に話をつける為に来て、その帰りに自宅まで送ってもらった。自宅へ戻る車内で元妻からいろいろこの間での動きを聞かされた。警察からも何度も事情聴取を受けていて私の身辺での話も聞かされていたらしい。当然妻の方の親戚でも報道を見て「どうなってるの?」と騒ぎになったが妻の親から「もう離婚してるから」というスタンスで関係を断つ結果になってしまった。それ以外にも私の至らぬ点が原因で妻は家を出ていて別居もしていた。

私がいきなり捕まったことで自分が副業で経営をしていた業務とかが面倒な事になっている事が予想されたので早く戻ってクリアにすることを優先した。

もう私と関わっていない方がいいだろうという世の中になっていた。

近所への挨拶

裁判までには時間がある、どうやら地元の報道で名前も流れてしまったようなので、隣近所にはお騒がせしたという謝罪と挨拶をしに数軒回った。町会でも話題になっていたのかどの方も知っていて「大変でしたね」とか「またやり直せるから」とか声をかけてもらった。

思っていた以上に報道されたダメージはあるなと感じた。いっそ遠くへ引っ越してもいいかとさえ思えた。しかし丁寧に暮らしてきた大きな一軒家があるし、長年の思い出もかさんだ荷物を片付ける気にもならなかった。

仕事も家族も失った

今まで他人事の様に聞いていた「仕事も家族も失った」状態になっていた。大きな家で独りぼっち、仕事もないし友達も居ない・・孤独との戦いが始まった。当然収入も無い状況であった。それをしのんで両親が少しなけなしのお金を渡してくれていったのが申し訳なかった。

その時にはまだ副業で経営していた会社での収入があったので食っていける状況ではあった。

父親から「早く仕事を見つけないと・・」と言われていたのが苦しかった。動こうにも裁判が終わらないと身の振りが出来ない。弁護士も刑事も実刑になるわけではないのだから転職活動をしていって、とも言われたのでいろいろあたってみた。先々の事も踏まえ、この事件の事を伝えて応募するカタチにした。50を超える年齢もあるが、さすがに結論も出ない保釈の身で採用には至らなかった。

保釈されてから年が明け、裁判まで2ヶ月半もあった。長い期間だった。年越しも一人でして誰とも会わず会話もしない日々が続いていた。

タイトルとURLをコピーしました